けっして親や友達や恋人(いないけど)には見られたくないブログ(略称)

(日々の体験やその中から感じたことを文章にして、面白おかしくみなさんに読んでもらいたいという崇高な精神で始めたわけでは決してなく、ただ単にいつか周り回ってお金にならないかなぁというよこしまな気持ち100%で始めた)けっして親や友達や恋人(いないけど)には見られたくないブログ(正称)

人生「生きてこそ」だ。でも同時に死は美しい。

最近、本当にビールが美味しい。喉越しというよりは、後味の麦の味がなんともたまらない。麦ジュースを飲んでるみたいな感じ。なんでこんなに美味しいのだろう。不思議だ。だけど、もっと不思議なのは、この麦ジュース、子供の時飲んだら、クソ不味かった。匂いもなんか、臭いし、ダメな大人の飲み物というイメージしかなかった。あれれ、僕は、ダメな大人になってしまったのかな。味覚というのは不思議なもので、子供の時はなんとも思わなかったようなものを、大人になったら美味しく感じるようになり、子供の頃、あれだけ好きだったものでも、大人になったら別に食べたいとも思わないものも多い。僕は、小さい頃、食卓に出る味噌汁を、最後に処理しなければいけない汁物のタスクぐらいにしか考えていなかった。だけど、今は味噌汁が本当に美味しい。しみる。僕は大学院生の頃、深夜食堂というドラマで主役のおじさんがつくっていた豚汁が美味しそうで、ネットでレシピを見つけて、真似して作ってみた。そして、出来上がったその豚汁を食してみると、脳に衝撃が走るほど美味しかった。ちょっと感動的に美味しかった。それから、本当に味噌汁は僕に欠かせないものになった。

人生はながい。その長い時間を通して、僕たちは色々なことを経験する。それと同時に、同じ経験をしても、違った感情を抱くようにもなる。それは自分の何かが変わったからだろう。経験の帰結としての心の動きが変われば、それは違った経験になる。今、どうでもいいことや、今どうでもいいひとが、将来の自分にとっては大切なものになったり、大切な人になったりする。人生は分からない。本当に分からない。

だから、生きなくては分からない。将来を決めてしまってはいけない。将来を決まったものとして考えてしまってはいけない。今、出来なくても、将来は出来るようになっているかもしれない。今、出来ても、将来は出来なくなっているかもしれない。今、味わっている感情を将来は味わえないかもしれない。今、味わえない感情を、将来は味わえるかもしれない。

人生は、生きてこそ、だ。生きないと分からない。いいことも、悪いことも、生きた分だけ分かる。だからこそ、生きてこそだ。生きないと分からないのだから。未来に希望を託す必要はない。

生きることは難しいことだ。けっして簡単なことじゃない。だから、生きさえすればいい。それだけで、だいぶあなたは頑張っている。

死ぬことが悪いことだとは思わない。自殺することが悪いことだとは思わない。自分の人生を終わらせる権利は、どんな人間にもある。「死ぬということさえ、自分で決めることができると思えた瞬間、楽になれた。」と、北欧の方のパラリンピックの金メダリストが言っているという記事を見たことがある。その記事はとても僕の心を揺さぶった。彼女は、とても苦しい病気に苦しんでいた。苦しすぎていっそ死にたいと思ったことも何度もあったのだろう。彼女の国は安楽死が合法化されていて、彼女は自分が人生を終わらせると決断する数年前に、安楽死の同意書のようなものにサインしていた。そして、そして自分で自分の死を決めた。それはとても美しいことに思える。生きることと同じくらい、死を自分で決められることは美しいことに思える。

死は悪ではない。スティーブジョブスの有名なスピーチの中に、死は生物が生み出したもっとも美しいものだ、というニュアンスの言葉があった。死は、個人の終わりを意味すると同時に、その生命体全体の更新を意味する。死があるからこそ、生命体は更新していくことが出来る。死は美しい。

同時に、生も美しい。

 

この文章を書いていて、『Alive』(邦題『生きてこそ』)という映画を思い出しました。今度、また見てみます。母が自分に見せてくれた映画でした。

 

生きてこそ。