けっして親や友達や恋人(いないけど)には見られたくないブログ(略称)

(日々の体験やその中から感じたことを文章にして、面白おかしくみなさんに読んでもらいたいという崇高な精神で始めたわけでは決してなく、ただ単にいつか周り回ってお金にならないかなぁというよこしまな気持ち100%で始めた)けっして親や友達や恋人(いないけど)には見られたくないブログ(正称)

しみるぜ、尾崎

 

先日、会社の同期3人で江ノ島までサーフィンをしに行きました。波も素晴らしく、さあ練習するぞー!とみんなで海に飛び込んでいきましたが、開始5分で同期のうち1人が波にのまれ、その衝撃で肩が外れてしまいました。結局、救急車で病院に直行しなんとか事なきを得、大変だったね〜などと話しながら藤沢駅をぶらぶらしていると、なんだか渋い声で、だけど情熱的に路上ライブを行っている方がおりました。結構人だかりが出来ていて、僕らも聞きに行ったのですが、それがまあ、路上ライブにしては、にしてはと言っては失礼千万ですが、まあ、にしては、しみるわけです。僕ら3人、最初はうまいね〜とか、これなんの歌だろうね〜と話していましたが、そのうち、なんか歌い方尾崎じゃね?となり、これなんの歌だろうと歌詞検索してみたら、尾崎の歌でした。確かに、その路上ライブを聞き入っている観客の方々を拝見すると、年配の方も多く、ストカンを持ち、滲み入るように聞き入っているおじさんもおりました。なんだかこんな風景いいな〜と思いながらも、随分前に死んでなお、今を生きる人に藤沢の路上で一青年に情熱的に歌われ、さらにその歌で藤沢駅を通りかかった人たちを感動させる尾崎豊は、すげえなと感嘆させられました。なんかよくわかりませんが、尾崎豊は我々の味方といいますか、我々の中に確かにある、しかし世間体だの常識だのを気にしてなかなか外に吐き出すことの出来ない想いを代弁してくれる存在であるように感じられます。尾崎豊もそんな風に感じていたんだ。自分が感じていたことは何も間違ったことじゃないよな。やっぱりそうだよな尾崎。と思わせてくれる、そんな存在に思えます。彼の歌はほとんど知りませんが、社会の想いを代弁してくれる、その想いを恐れず吐き出してくれる、同じ想いを心に抱えている人に勇気を与えてくれる、そんな存在は、きっとどこの国でも、どの時代でも、どの職業でも、素晴らしいものですね。あまりぱっとは思いつきませんが、ちょっと昔の日本でいうと美空ひばりだったり、アメリカではボブディランだったり、ジャマイカだとボブマーリーだったり、ボブサップだったり(それは違うか。)、現在だと、あいみょんとか、レディガガだったりするんですかね。歌手に限らず、政治家だと、ケネディやドナルドトランプだったり、いい例ではないですが昔のドイツのヒトラーだったりするのかもしれません。社会の声を言葉にして、それを表現する人はおそらくどの時代にもいて、人々から指示されたのでしょうね。

 

かくいう僕も、この歳(27歳)になって初めて、尾崎豊の素晴らしさを感じることができるようになったのかもしれないと思うと、今さらか〜という思いと、なんだか嬉しいな、という想いの両方があります。だって何かを素晴らしいと思えることは、素晴らしいことではありませんか。僕は、あの路上ライブをきっかけに尾崎豊の歌を聞くようになり、うわ〜、いいな〜と思うようになりました。尾崎豊は15の時に自由を渇望し、社会に逆らいたいと思っていたのかもしれませんが、僕は27になり同じ想いを抱えています。(そういえば、同じことを24ぐらいでアンジェラアキの歌でも感じました。拝啓。15の君へ。的なあの歌です。)

 

15の自分を振り返ってみると、何も考えていませんでした。ただただ生きていました。自由についても考えたことはなかったし、生きるということについても考えたことはなかったし、自分という存在についても考えたことはありませんでした。ただ今になり、ようやく僕にもその時期が訪れました。作家の立花隆は青春漂流という本のなかで、その時期のことを青春だと定義していましたが、僕にもようやく青春が訪れたのかもしれません。そういえば、僕の人生に青春ぽい青春はありませんでした。これが青春だとすると、それはドラマや映画で見ていた甘酸っぱい青春とはだいぶ趣を異にしております。それは、どっしりと重たく、まるで濁流のように僕を飲み込み、常に生きずらさを感じるものです。そしてその濁流の中にいる時、常に答えというものはないものです。もしかしたら答えが見つかるか、答えがないことを受け入れた時に、その青春は醒めるのかもしれません。

 

ただこのクソみたいに生きづらい、自分を疑い、幸せをなかなか感じられない青春という時期を過ごすことは何も悪いものではありません。それは人生の今まで知らなかった側面を知ることが出来るからです。これまで考えてこなかったことについて考え、これまで自分になかった考えを自分の中につくっていくことが出来るからです。また尾崎に染みることが出来るもの今だけなのかもしれません。この夢から醒めたら、そんなバカみたいに、ガキみたいなこと言ってないで、賢く生きろよ。と、冷めた目で見てしまう大人になってしまうのかもしれません。それは人生のあるステージに達したということで成長なのかもしれませんが、同時に、生きるということに対する真剣さと自分らしさを失っていうという意味で老化と言えるのかもしれません。芸術家の岡本太郎は、きっと死ぬまで青春のなかに居た稀有な人なのかもしれません。僕は、岡本太郎みたいに死ぬまでこの青春の中にいたいとは思いませんが(だってそれはあまりにしんどいじゃないですか笑)、今はこの青春を起きるしかないようですので、しっかり生きたいと思います。

 

いつかこんな話を、どこかのノスタルジックなバーで、ウイスキーでも飲みながら、誰かとお互いの経験を同じ温度感で語り合えたら、それは、まさに最高と呼びたくなるものなのでしょうね。もちろんBGMは尾崎豊で。

 

 

 

おしまい